本能寺の変 真実は?

今回は来週に迫った【麒麟がくる】の最終回。
今作のメインイベントである本能寺の変の記事を書きたいと思います。
ドラマでは麒麟を呼ぶに相応しくないと信長を見限ったという形になりそうですが史実では様々な説が出ています。
この記事ではそれらの説を色々ご紹介したいと思います。

前提として、多くの説が出ていますがどの説もそれを確定させられるだけの資料がないため定説と言われているものは無いのが現状です。
そのため日本史最大のミステリーなどと言われたりします。

また、最後に流水の私見も書かせていただきました。

目次

色々な謀反理由

今回は下記の説をご紹介したいと思います。

  • 野心説
  • 黒幕説
    • 朝廷黒幕説
    • 義昭黒幕説
    • 家康黒幕説
    • 秀吉黒幕説
  • 不安説
    • 転封命令による不安説
    • 追放を恐れての不安説
  • 怨恨説
    • 長曾我部外交による怨恨説
    • 母親が殺害されたことによる怨恨説

野心説

まずは、野心説です。これは光秀が天下を狙って謀反を起こしたというものです。
とてもシンプルですね。あの時代は下剋上の時代ですから不思議ではありません。
ただ、この野心説も入念に計画して起こしたパターンと「今なら行けんじゃね?」と突発的に行ったとする2パターンがあります。

黒幕説

光秀の背後に首謀者がいるとするのが黒幕説です。
この場合、光秀は誰かに従ってことを起こしたということになります。
色々な黒幕説があります。

朝廷黒幕説

朝廷を蔑ろにする信長を危険視した朝廷が光秀を使い信長を排除したという説です。
この場合、信長と朝廷の間に軋轢があり信長が朝廷を軽視していたという前提になります。
確かに信長と朝廷の間には軋轢の根拠とされる正親町天皇の譲位問題や三職推任問題などがあります。
各問題をざっくり書きます。

譲位問題・・・正親町天皇の意に反し譲位を推し進めた。
三職推任問題・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のどれかにつくように朝廷側から提案したがこれを信長が断ってしまい。これを朝廷軽視とするもの。

光秀は公家との繋がりも多く朝廷を重んじており信長の上記のような対応に嫌悪感を抱いておりそんな光秀に朝廷が信長を打つように指示したのではないでしょうか。

義昭黒幕説

鞆の浦にいる足利義昭が光秀に指示して信長を排除したとする説です。
光秀は元々幕臣でしたから、旧臣に信長を排除させ再び京に戻ろうとしたということになります。
確かにこの頃の義昭は実権はないもののいまだ征夷大将軍ですし、各諸勢力に信長を討つように指示していました。
旧臣にも声をかけていてもおかしくありません。
また、光秀も暴走する信長に嫌気がさしており信長より旧主の義昭になびいた可能性は否めません。
また、本能寺の変後に光秀から土橋重治に宛てた6月12日付の手紙に
「なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事」
とあり、この時の情勢で「ご入洛」「上位」に該当する人物が現征夷大将軍の義昭と考えるのが自然です。
つまり「義昭を京都に迎え入れるという目的達成のため努力することが大切である。」となります。
これは、義昭説の動かぬ証拠と言えるのではないでしょうか。

家康黒幕説

家康は形式上信長と対等な「同盟」という関係でしたが本能寺の変の頃には圧倒的勢力差になっており半ば従属的立場にありました。
信長としても完全な織田政権を樹立するとなると家康の扱いをどうするかということになります。
信長は家康を亡き者にしようとしたのではないか。
それを察知した家康が信長に不満を持っていた光秀を唆したのではないでしょうか。

秀吉黒幕説

事件が起こった時はもっとも得をした人が怪しいものです。
さて、本能寺の変で一番得をしたのは誰でしょう?
それは、変から一気に天下人の階段を駆け上がった羽柴秀吉ですよね。
秀吉が光秀と示し合わせor唆し信長を討たせその後に光秀を始末したのではないでしょうか。
こう考えれば神速の中国大返しも説明がつきますよね。

不安説

光秀が将来の自分もしくは明智家に不安を感じ謀反を起こしたとする説です。

転封命令による不安説

『明智軍記』には信長から現在の領地から転封を命じられたとする話が出てきます。
しかも、その領地はまだ敵が治めている地です。
当然攻め取れなければそこからの収入はありません。
「こんなんやってられっか」と謀反したのではないでしょうか。

追放を恐れての不安説

信長は功績の芳しくない者、失態があった者を追放処分にしています。
例えば、大河ドラマの記事で触れた佐久間信盛。※佐久間信盛にはこちらの記事で触れております。
尾張時代からの家老・林秀貞
本願寺攻めで討死した塙直正の一族
こうした信長の運営方針に「いつか自分も追放されるのではないか。」「自分が死んだ後に明智家も同じ目に遭うのではないか」と将来を悲観し謀反を起こしたのではないでしょうか。

怨恨説

信長に対する恨みが募り爆発してしまったとするのが怨恨説です。

長曾我部外交による怨恨説

光秀は、四国の長曾我部家と織田家の外交窓口になっていました。
長曾我部家と織田家の関係は長く、まだ信長が美濃を取ったころからやり取りを行っています。
当初、長曾我部家当主元親は美濃を取ったばかりの信長に「四国全土を攻め取ってもいいでしょうか?」と使いをよこしています。
信長からすれば遠く離れた四国の領有権を確認しに来るというのはとても気分がいいものだったでしょう。
なぜなら元親は将来的に信長が天下を取ると見込んでいるということになるからです。
この際は信長も「切取次第(好きに取っていいよ)」と返答しています。
そんな元親は美濃の石谷氏から奥さんを迎えています。
この石谷氏をですが後に跡継ぎがいなかったことから養子をとっています。
それが斎藤頼辰という人です。
この人、光秀の腹心斎藤利三の兄になります。
つまり光秀の腹心と元親は縁戚関係ということになります。
石谷頼辰は縁戚関係というのもあって光秀元親間の使者として奔走していました。
さらに、元親は自分の嫡男に信長から一字もらい「信親」と命名しています。
ここからも両者の関係がとても良好だったことが伺えます。

ところが織田家が勢力を広げ四国と領地が接するようになると両者の関係に陰りが見え始めます。
当初こそ「切取次第」と言っていた信長ですがここにきて「やっぱ土佐と阿波の半分だけ領有してもいいけどそれ以外はダメ」と言い出します。
ここで割を食ったのが窓口になっていた光秀です。
せっかく良好な関係を築いていたのに信長が前言を撤回してしまいました。
長曾我部としては元々許可を取っている上、領地を切取ったのは元親自身の力であり信長のおかげではありません。
当然「そんな要求聞けるかコノヤロウ」となります。
光秀としては信長の前言撤回によって自分の仕事が失敗。顔に泥を塗られたと感じたのではないでしょうか。
さらに、腹心の部下と元親が縁戚関係というのも信長の行動に不満を持つ要因になったことでしょう。

母親が殺害されたことによる怨恨説

『常山紀談』などには光秀が母親を人質として出して八上城の波多野兄弟などを自身の城に呼び出しこれを捕らえて安土に送る話が出てきます。
信長は送られた波多野兄弟以下全員磔にしてしまいます。
これに怒った八上城の家臣たちは光秀の母親を殺害してしまったという話が出てきます。
母親が殺害されたのは信長が原因だと光秀が恨んでもしかたがありません。
これが本能寺の変の原因になったのではないでしょうか。

最後に

色々な説を紹介してきましたがいかがでしたでしょうか。
最後に私、流水はどう思っているのかを書きたいと思います。

結論から言うと「今なら信長を殺害出来て天下を獲れるのではないか」という突発的野心説です。
まず、私は黒幕説に否定的です。
なぜなら黒幕がいた場合、光秀の謀反に合わせて行動を起こすはずですがそんな形跡がありません。
朝廷が黒幕なら直ぐにでも光秀の正当性を保証するでしょうがそんな様子はありませんでした。
義昭が黒幕というのは朝廷説以上に無理があります。
もし義昭と光秀が繋がっているのであれば義昭を庇護している毛利家が秀吉と和議を結ぶはずがありません。
むしろ毛利に秀吉を追撃させ光秀を援護させるはずですがそんな様子がありません。
手紙に関しては光秀の手紙だと思いますがあれは光秀が方便で書いたのではないかと思っています。
6月12日というのは秀吉との決戦である【山崎の戦】の前日です。
この時点で光秀は親交も深く縁戚でもある細川藤孝、組下の筒井順慶にそっぽを向かれています。
秀吉との戦力差は圧倒的で少しでも味方が欲しかった光秀が義昭の名前を利用したのではないでしょうか。
家康にしても直ぐに光秀に呼応するように挙兵をしていません。
秀吉は唯一「中国大返し」という形で行動していますがもし秀吉が黒幕であれば光秀側がそれを主張するでしょう。
わざわざ黙って死んであげる理由がありません。
やはり誰かが裏で糸を引いていたというのは無理があると思います。

転封、母親殺害については出典が信憑性の乏しいものばかりです。
『明智軍記』『常山紀談』ともに18世紀頃に書かれたと言われており本能寺の変から100年以上経過しています。
そして、これらの出来事を裏付ける資料が当時の資料にありません。


長曾我部外交と追放に関しては実際にあったことですし不満はあったかもしれません。
ただ、不満からとりあえず殺したというよりは天下への野心からだったと思います。
なぜなら当時の状況は光秀に相当有利だからです。
歴史を知っている我々は結果から見て「なぜ謀反なんて無謀をしたのだろう?」と思うかもしれません。
しかし、当時の状況を見れば勝算は十分にありました。
本能寺の変当時は織田家幹部の軍勢は皆遠方で敵と対峙していて普通は変を知ったところで直ぐに帰ってこれません。
現場で対峙している敵勢力が追撃してくるからです。
実際に北陸方面軍を指揮していた柴田勝家は対峙していた上杉の追撃に備えて副将の前田利家、佐々成政を越前越中にそれぞれ残し、少ない手勢で帰還しています。
また、関東方面の滝川一益は変を知った北条と戦い大敗。
這う這うの体で帰還しています。
京周辺は元々光秀の領地です。彼らを使って中央を抑えてしまえば後は各方面軍を各方面軍と対峙していた勢力と共に挟み撃ちにし各個撃破してしまえばいいのです。
その勝算を木端微塵に打ち破った秀吉がチート過ぎたのです。
この時の秀吉の凄さについてはいずれ別の記事で触れたいと思います。

私が野心説の中でも突発的野心説だと考えている理由は、光秀にしては不手際が目立つからです。
光秀は1万を超える軍を率いていたにもかかわらず初めに本能寺のみ襲撃しています。
実は、本能寺の変で信長が死んでも織田家が傾くことはありませんでした。
なぜなら既に家督は子供の信忠に譲っていたからです。
この時の信長は謂わば会長です。会長が死んだところで社長が無事なら問題ありません。

この後織田家が傾いたのはこの時に信忠も死んでしまったからなんです。
しかし、実は信忠は京都を脱出する余裕がありました。
前述の通り光秀は当初本能寺のみ攻撃しており、信忠がいる妙覚寺には兵を送っておりません。
しかも京の出口を封鎖もしていません。

本能寺の変を知った信忠は「光秀ほどの者ならば既に京都の出口は封鎖されている」と判断し二条御所に移りそこで光秀を待ち受けますが信忠が一目散に逃げていれば京都を脱出できたのです。
信忠の脱出は謀反に於いて致命的です。
現当主信忠が生きている限り光秀に味方する織田家勢力は出てきません。
そうなれば京周辺で孤立した光秀に勝ち目はありません。
謀反成功に必要不可欠な信忠殺害を疎かにしていたのは名将・明智光秀らしくありません。
突発的だった故のミスだったのではないでしょうか。


上記を理由に私個人としては突発的野心説だと思っています。


本能寺の変の真相については現状謎のままです。
研究の末いずれ真実が解き明かされる日が来るのでしょうか。
真実を知りたいと思う反面、謎は謎のままの方が想像の余地があって魅力的でいいのかなとも思ってしまいます。
皆さんはどうでしょうか?
歴史ミステリーの真実を想像するのは楽しいですよ。
一度やってみてはいかがでしょう。

いじょ~流水でした。







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この記事を書いた人

歴史好き/読書好きな一般サラリーマン
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